川崎式駆動装置構造編


 川崎式駆動装置は、昭和11年8月に始まった鉄道省初の客車空気調和装置の安全対策として昭和13年に登場します、これは昭和11年の発電機式冷房試行の際に冷房用車軸発電機の巻線が破断し、車軸の回転を止めて本線上を火花を散らして滑走する事故がありました、保安上の対策として滑走事故を起こさない新しい駆動方式を検討したところ、ベルトを介して駆動するベルトドライブ方式が具体的な案として浮上します、昭和8年より満鉄の列車冷房採用で冷房用発電機を担当した川崎造船所(川崎重工業)は、鉄道省の嘱託として電気部の小倉技師が米国で電化鉄道の調査をしているため、同氏にベルトドライブシステムの更なる調査を指示し、同氏は伝説に残る苦心の結果、直接駆動式客車空気調和装置のメカニズムや大容量発電機を駆動するベルトドライブシステムを会得して帰国します。

 大阪鉄道局の特急「燕」号には冷房食堂車が組み込まれ、昭和12年からは上下編成とも冷房化する計画で、前年度の発電機式を改良した装置を2両分購入し、発電機容量を増やす方向で対処しましたが、川崎造船所ではようやく大容量発電機を駆動できる川崎式駆動装置の目途がたち、昭和13年に実証試験を行う事になります、そこで東京オリンピック開催に向け早急に列車冷房分野の発展を望んでいた鉄道省は、発電機式の限界を見据え構造的に簡素化する直接駆動式の採用を検討し、独自に研究を続けていた川崎造船所が直接駆動式の試作機を昭和13年に完成させました、誕生したばかりの川崎式駆動装置はこの直接駆動式の動力装置として試験され、昭和13年8月の試運転で成功を収め、この結果により営業中の発電機式客車空気調和装置の発電機駆動方式を川崎式駆動装置に改造する計画を立て、昭和14年夏にマシ37851号の発電機を台枠中梁に固定し、川崎式駆動装置の転用試験が行われ、翌15年夏には残る2両も川崎式駆動装置に改造されました。

車軸の回転をベルトで取り出して傘歯車で動力方向を変換して出力します。

1組の傘歯車は4組のベアリングで保持されます。

戦前の傘歯車は、スパイラルベベルギア。

車軸調車は二分割にされ車軸にセットされます。

 

戦前のベルト継手は、噛み合い式だったが戦後はリンク式が主流となる。

 川崎式駆動装置は、鉄道省を始め、朝鮮鉄道、南満州鉄道で採用されました、また戦後は賠償として昭和25年に、フィリピン鉄道へKM-5形の駆動装置として輸出されています。

 大阪鉄道局の特急「燕」号は昭和17年まで冷房試験を行ってきたが、昭和18年2月には大阪発着となるために、明石操車場から宮原操車場へ転属し、冷房試験も戦局の進展により中止され、客車空気調和装置機器は鷹取工場の部品庫へ保管され戦災を受けた、車体は三田から電鉄有馬へ運ばれ疎開のまま終戦を迎える。

 戦後直ちに米軍の要請で国産客車空気調和装置を進駐軍専用客車に取り付ける話が進み、直ちに生産できる客車空気調和装置は唯一川崎式KM形客車空気調和装置であったため、昭和21年物資不足の最中に5両分の川ア式駆動装置を完成させた、同時に新製軍用一等寝台車40両の話も出たので既に発注を受けている35両分に加え合計75両分の発注が見込まれたが、その後の変遷で軍用に35両分、KM4形用に21両分、特急用に6両分の計62両分が生産された、またこれらの予備品も相当数製造されている。

 この川ア式駆動装置の弱点は安全装置である、ベルトに復帰機能が無いことで、走行中切断すると区へ帰るまで駆動装置は使用できないことになり、戦後は特に運用に出るたびにベルトが落失する件数が多く、回収や落下防止機構など様様な努力が図られたが、昭和24年のKM4形では歯型ベルトから波形ベルトへ改良され接続金具も7回程改善されたが、昭和27年には大鉄局でエンドレスベルトの試験が行われ、好成績を残したために昭和28年にはエンドレスベルトの全面的採用に着手した。


  以下川崎式駆動装置(昭和14年度2次改造)三面図